昭和42年04月26日 朝の御理解
信心を育てるとか、信心が育つとか言う事が言われますが、信心が育つと云う事は、どう言う様な事だろう。又は育てると言う事はどう言う様な事だろう。又は育てると言う事はどう言う事だろう。勿論育てるというので御座いますから。信心が言うなら豊かに大きゅうなって行くという事なんですけれども、信心が分かると信心が自分のものになって行くと云う事だろう。
段々信心が強うなって行く、いよいよ真心の人になって行く。いよいよ神様を信じて疑わない心が強うなって行く信心。神心、真心、まごころ、神こころ、信ずる心そう言う様な心がいよいよ育てって行く事だ。いろいろ勉強さして頂きますと、信心の事がいろいろ分かります。いろんな事のものの道理が分かってまいります。特に天地の道理が分かっていき、人間万物の霊長としての値打ちというのは。その天地の大恩。
天地の御恩徳を分かってその大恩に報いる生活、その天地の御恩徳に対して、いわゆる報恩の生活。いわゆる神恩報謝の菜勝をさして頂くと言う事。まあ信心はそうなんですけれども、それが段々その育っていかなければならん。それだけが分かると言う事だったら、いっぺんお話を聞けば分かる。ああ金光様の信心とはそういう信心ですかと。言うなら二時間、三時間お話を聞けば大体金光様の信心が分かる。
信心が分かっただけじゃいかん。それが自分のものになっていかなければならん。ですからその信心の目指しというのは、どう言う事かと言うと、いわゆるその喜びの生活なんだ。自分の心の中に喜びが育って行くのである。信心をしてみれば一年一年有り難う成って来るとこう仰る。昨日婦人会の方達が皆さん帰られまして、福岡の秋永先生と富永さんが残って、渡辺先生も丁度用があって残っとられました。
まぁ富永さんが、一つの人間関係の難儀というかね、そういう悩みを持っておられる。それをその秋永先生に話される。それをその位の事がおまえ、そんな事は問題じゃなか。そこんところはこういう風にいかじゃこて。けども実際はその悩みに取り組んでおる。苦しみに取り組んでおる俺の心も分からんでと云うて、富永先生が言われる訳なんです。そして例えば、何年前に秋永先生自身が通られた。
その苦しみの時の事を富永さんが指摘して、お前もあん時はああして苦しみよったじゃないか。俺が苦しむのは当たり前だ。お前の様に信心も出来ていないし、という訳なんですね。そういえばそうなんですよ。それで私それを聞きよってから、成る程ならひとつ難儀と言うものに直面しておる。そん時には秋永先生自身も深刻にやっぱり、悩んでおった苦しみであった。
けどもそこんところを段々分からして頂いて、あれが御神徳であった。おかげであったと分からして頂く様になったら、その事がひとつも難儀な事ではなかったと言う事になってきた。そして五年経ち十年経ちしておる内にです、人のそういう難儀を見た時に、それは難儀じゃないんだぞと、苦しみじゃないんだぞと、御神意だぞと。だからそこは通った者じゃないと分からんから。
ああしろこうしろそう言う時には、こういう心持ちになるのだと教えて下さる。そりばってんお前だって十年前にはあげん苦しみよったじゃないか。と富永さんが言われる訳なんです。そこで私は横から申しました。そこでね富永さん結局なら秋永先生のお取次を頂いて、あんたはこうやってあんたの悩みと言うものを聞いて貰う。お前だってなら十年前には苦しみよったじゃないか、と言ったらもうそれまでなんだ。
そこで通った人の話を聞かせて頂いて、成る程そんなものかなぁそうかなぁどうぞよろしくお願いしますと、お取次を頂いて行く所にです、その秋永先生までの安心は頂けないにしても、成る程そういういっぺんに体験者の話を聞かせてもろうたら、楽になりはせんか。お前も苦しんどったから、俺も苦しむだったら、ひとつお取次を頂いた値打ちはないじゃないかと云うて、私夕べ話した事でした。
私が皆さんの様々な難儀を聞かせて貰う。もう最ももう先生いよいよダメです。私は申しました。昨日富永さんにもう先生私はもう一円の金でんもう無かっですよち言う。ハァそりゃよかとこですよ。よかとこてんなんてん、私はもうほんなこて無かっですよ。もうほうなこて無かっですよ。そりけんよかとこじゃないですか。まぁだああた洋服も着てあるし、まぁ腕時計も持っちゃるじゃないですかと私は申しました。
腕時計は持っとりますけれども、と云うて腕時計ばこう見よんなさいます。まぁだ腕時計もありゃ、まぁだだんだん夏になっていきゃシャツ一枚でええ、上着も着ちゃる、まぁだいっちょん無かたぁ言わせん。と云うて、まあ申しました。私は本気でそう思います。だから私がちょっと、何かこうすくいの手を延べるならですね、すぐ楽になることは分かってますけれども。
私は今ここん所がよかとこだと私は思うとるんです。よかとこを通りござるとこう私は思うのです。皆さんでも同じ事。もう先生こういう難儀な事が、私から見るとひとつも難儀じゃない。それこそああた、神様に反対に御礼を申し上げにゃならん事じゃないですか。そう言うたってと例えば言ったらそれまで、ほんにそうなんですなと思え、云える所に信心の救いがある。
お前だってこういう、難儀な問題に直面した時に、十年前のお前でも、あんなに苦しみよったじゃないか、だから俺が苦しむのは当たり前だと云うて、苦しんだら、信心の救いは無いじゃないか、そこでなら、富永さんがその、秋永先生として頂かずに、やっぱり友達、秋永として見とるから、そんな事になるのですね。そこで私はその思うんですね、信心が育つと言うことは。
なら秋永先生に言うならば、十年前の秋永先生は、此の問題にこういう問題に取り組んだ時に、こういう風に難儀であった。確かに久保山先生とこの奥さんじゃったと思う。もうその秋永先生が、あの大変な難儀な問題に取り組んでおる時にです、丁度あの椛目のお便所があの境内にあった時、こちらに大便所があり、手前に小便所があったです、久保山先生の奥さんはその大便所の方を使うちゃった。
所が誰かが小便所の方に入って来たと思ったら、秋永先生であった。もうそれこそもう血を吐くごたるその声で、秋永先生が金光様と言いながら用をたしておるのを便所の中で聞いておった。出ろうと思うても出られなかった。その後がですもうちきしょうと云うてからそのまぁ言うとったと言う訳ですね。俺にこう言う様な俺に苦しい思いをさせてと言う訳なんですよ。
もうそん時の事をお届けされて私は本当にそうもあろうとそん時は思いました。そう言う様なひとつの難儀と感ずる、もう本当に心の底から血を吐くごたる思いで、金光様に縋らなければおられない、と言った様なその状態の中からです、その事が段々おかげであると分からせて貰い、その事が御神意であったと分からして貰うて、なら、例えば十年後、又は十何年後にです。
それに感謝しておる喜んでおる、有り難いと思わして頂いておるという。それが段々有り難いものに変わって来た。私は信心をしておれば一年一年有り難うなって行くと言う事は、そう言う様な事だと思うんですよ。十年前のあの苦しみの事本当にあの事が無かったら、あの苦しみの事だけは忘れられんと言うのだったらですねまだ信心は育っとらん、あの事のおかげでその事が、御礼が云える様な心の状態が段々段々育って行く。
もう本当にそれを思う。私共が本当に飲まず食わずの状態、秋永先生が言いよんなさった。富永さん、あんたがつは自分一人じゃろうが、自分一人が金が無かとか、なんかち言うだけじゃろが、家内やら子供やら家やらというのは、やっぱりお店もじゃんじゃんやっておるし、子供はちゃんと学校へ行っておるし、お金は沢山あるし、そのあんただけが今、お金が百円も無いと言う所じゃろが。
親先生の思いをしてみなさい、もう家族中、家族をあげての難儀じゃったつよ。さぁ今夜はもう食べる米が無いと、言う様な時が何時もあったばい。百円どころか、一円どころか、もういよいよ最後の底を突いておると言う事は、もう毎日じゃったつばい、然っも家族を抱えてのその難儀じゃったつばい。そげなあんた一人位の何日食べんでんどうあるかい、そう言うておりました。
けれどもですね、そういう例えばなら、私が十何年前にですかね、二十年近く前の自分の事をです、あん時の苦しい事は、その事が信心なんだ。教えを頂かなければ。そしたらあの、一生懸命に掃いたり、お雑巾を掛けたり、お掃除をしておる様子を頂いた。私共の心の中に何がなしかの喜びの芽が出る。心が有り難い、その有り難いという心を仲々そのまま持続すると云う事は仲々出来んのです。
確かさっきまではあんなに有り難かったのに、今はもう心の中が暗くなっている。イライラしておる。腹が立っておる。さっきの有り難いのは束の間。ですからその有り難いと言う物を育てると言う事は、丁度毎日こうやって家庭生活をさして頂いておる中にです、朝お掃除をしたから、もう夕方はせんで良いと云う事は無い。もう昨日しとるけんで、今日はせんでよかと言う事はない。
綺麗好きの人であればある程に、もうそれこそ何時も雑巾な持っとる、何時もほうきは持っとる。散らかったらそれを拾う。いよいよなったら、それも拭くと言う様にです、如何にその自分の心というものに、本気で取り組んでです、もうちょっとした埃でも払わして貰う。ちょっとした汚れでもすぐ拭かして貰う。と言う様な心掛けがなからなければ、喜びは育たないと云う事が分かりますですね。
例えば子供の不行状というか、子供が私、夕べここを下がって、十一時から下がらして頂いたら、まだテレビのところに電気がついとるから、そのきちっと閉めてから誰かがテレビ見よる訳です。いったら長男と二番目の息子が、二人でテレビを見よりました。まぁだ紋付き袴を着けたなりです。二人ながら奉仕着を二人とも着けたなりで、一人はこう長うなって寝とる。
一人は机の上に足をあげてから、こうやってあんたどんどうした行儀の悪い事かとは、私は申しませんでした。もう本当にがっかりする様な姿なんですよ。机の上に足をこうあげて然も奉仕着に紋付き袴を着けたままです。そういう時にです、もう言うたら綺麗にはなりませんですね。そういう姿が私の心の中にあるんだ。心の中にあるんだと思わにゃいかん。あるんですから。
実際もっとひどい姿が心の中にあるんですから。是が私の姿なんだと神様にお詫びをする気持ちにならして頂く。そう言う様な事だと思うんですね。拭いたり、磨いたりと云う事は。もうそん時言うたらですね。お終いですよ。それがですね、言うこつどん聞かんならです、こんだ却って心を汚してしまうです。親の言う事も聞かんと云うて却って汚れるです。だからその辺の所のこつ合いというものを覚えますと。
一日を例えば締めくくった時にです、心の中に喜びが育って行きよるのが自分で見る様に感ずる事が御座います。信心が育つと言う事は、いわゆるその喜びを本気でなって育てると云う事なんです。そこんところを精進しなかったら喜びは育ちませんです。次に御心眼に頂いたとこう指をですね、親指と人差し指で丸く円を作ってある所を頂いた。然も是がこうやって離れているところを頂く。
円にするとちょっと親指と人差し指で丸を作る。お金なんかの時こうするでしょうが、これが無いとか、丸かつが無いとか、そう言う様な格好でしかもこれが離れているんです。ははぁ喜びを育てると云う事は、此の輪と言う事、いわゆる和賀心、和らぎ喜ぶ心をいよいよ育てて行くと言う事はです。この和を作って行かなければならんのだなぁと云う事。人差し指は人の事、親指の事は親の事、いわゆる親神様の事、親の事。
皆さんで言うなら肉親の親もあろう、育ての親もあろう、場合には義理の親もあるかも知れん。又教えの親のある。第一天地の親がある。此の親と人を大事にして行く。いよいよ親を大事にして行く。いよいよ人を大事にして行くと云う事。是はもういよいよ此の喜びをですね、頂いておるその喜びを持続して行く。持ち続けて行けれると云う事なんだ。所がその持ち続けておってもです。
又散らかったり汚れたりやっぱりする様にです、そん時にすぐ様々なものを見ても聞いても、どの様な事に直面しても、それを一切磨いたり、清めたりする材料であると分からして貰うて。愈々心の喜びを育てて行かなければいけない。同時にその心を愈々本当なものにする為に、愈々人を大事にして行かなければいけません。人を軽うみな、軽う見たらおかげはなしともう本気でです、人を大事にする事に務めてご覧なさい。
綺麗な着物を着て御座る人は大事にする、粗末な風をして御座る人はろくそにする。そういう心掛けでは、もう絶対に喜びは育ちません。ところが私共の心の中にはありますから、むしろだから少しは人間心を使うてです、本当に自分が軽蔑した様な人、お粗末な風をして御座る様な人を帰ってひとつの大事にするという心掛けになってご覧なさい、人を大事にすると言う事。
金光様の御信心さして頂くならですね、もう確かに人を軽う見たらおかげはなし。もう教祖がはっきり仰って断言しておられるですね。此の御教え人を軽うみな、軽う見たらおかげはなしと断言して御座る。ごげんはっきり云うて御座る教えはないです。それを私共が人を軽う見ておる様な事は無かろうか、はぁありやと言った様な考え方なんです。その人はその人なりにです。
とても私では真似の出来ん様なものを、どこか一つ二つ位もっとるですそこを所謂人間尊重と言われておる、それなんです人を軽うみな見たらおかげはなしと。人を大事にしなければいけん。商売人であったら、お客さんを大事にしなければいけん。家内でも子供でも使用人でも大事にしなけりゃいけん。神様の氏子として大事にしていかにゃいけん。白人達が良かと言う事はない、黒人でもやっぱり大事にしなけりゃいけん。
金光様の御信心の素晴らしい所はですね、たったそう言う様な表現で、そんなに素晴らしい御教えをしてある所が素晴らしいですね、人種差別てんなんてんち、云う事がもう全然無いです。皆んな神の氏子として黒も白も同じ事だと言う見方なんです。ですから皆さん、本気で人を大事にしなけれりゃいけませんよ。是を喜びを育てて行く為に、喜びを持続して行く為に、同時に只今、私が今朝から頂いおります様に。
喜び育って行くと云う事は、丁度お掃除好きの人がお掃除をする様なものだと言う事。ろくそな人はもう散らかっとろうが汚れとろうが平気、自分の心が汚れて、汚れ果てて行く。それを自分で平気でおるとです、いよいよ言うなら生が変わって行く。雑巾でもそうでしょうが、もうタオルでも煮染めたごと汚れとる。それをほうからかしとるとですね、その例えば、布なら布が変わったら詰らん。
もうそれこそ人間の面しとるだけで、鬼じゃろか、蛇じゃろかと云う事になります。生が変わって参りますと段々歳を取るに従って、頑固じいさんになったり、鬼の婆ごたる人と云う事になって行くのですよ。生が変わって行きよるとです。あれは。ですからその生を大事にしていかにゃいかんです。それが絶えずです、拭いたり清めたり、掃いたり言う丁度お掃除のそれと同じ様な事ですから、難しい事じゃ無いなと私は思うです。限りなく美しゅうならせて頂こうというのは、美し好きになろう。
綺麗好きになろうと言う事なんです。と云う事は同時に、只今申します様にですね、親と人とを大事にして行くと云う事。そこに此の本当の和がある。いよいよ人を大事にさして頂こう。いよいよ親を大事にさして頂かにゃおられん、と言う様な心をひとつ作って行こう。そこから信心が育っていく。いよいよ喜びが育って行く、信心をしておれば一年一年有り難うなって行くというおかげになって行く訳ですね。
どうぞ。